秋田県大館市は、戊辰戦争の激戦地として日本の歴史に名を刻む街です。
本記事では、
といった方に向けて、戊辰戦争時に大館周辺で繰り広げられた戦いの様子や、現代に残る文化財について解説します。
戊辰戦争では、大館周辺でも新政府軍と旧政府軍が激突し、重要な戦場となりました。
当時の戦いを振り返るとともに、戦場跡や戦火を免れた文化財を紹介します。
地元の人もあまり知らない歴史の話かもしれませんね。
戊辰戦争の歴史を振り返りながら、大館市の新たな魅力を知るきっかけになる記事です。
大館市の歴史に興味のある方や、歴史ファンの方必見の内容。
ぜひ最後までご覧くださいね。
大館市の魅力について解説した記事もあるので、あわせてご覧ください。
本記事のポイントは次の通りです。
それでは、大館における戊辰戦争の激戦の様子に迫っていきます。
戊辰戦争で大館市周辺が激戦地に
戊辰戦争では、旧幕府軍と新政府軍が全国各地で激突しましたが、大館周辺も重要な戦場のひとつでした。
久保田藩と南部藩の激闘が繰り広げられ、多くの戦跡が刻まれている大館。
ここでは、戊辰戦争の始まりから、大館周辺の戦いの様子について解説します。
戊辰戦争の始まりと東北戦線
戊辰戦争は1968年から1889年にかけて日本で起こった、近代史上最大の内戦。
新政府軍と旧政府軍の間で戦いが行われ、新政府軍が勝利し、明治維新へとつながっていきます。
戊辰戦争では東北地方も主要な戦地となり、新政府軍に対抗するために東北全藩と北越の6藩で奥羽越列藩同盟が結成されました。
なんか歴史の授業で聞いたことがある気がする。最後は五稜郭まで行って新政府軍が勝ったんですよね。
久保田藩(秋田藩)は当初同盟に参加していましたが、途中で新政府軍に転じたため、1868年8月9日に南部藩が宣戦布告。
久保田藩と南部藩の境に位置する大館で、激しい戦闘が繰り広げられたのです。
確かに、大館市の隣にある鹿角市(かづのし)は、昔は南部藩の領地だったと聞いたことがあります。大館が久保田藩の最前線だったんですね。
大館市周辺は久保田藩と南部藩の戦地
戊辰戦争の東北戦線において、大館周辺は久保田藩と南部藩の戦場となりました。
大館は久保田藩にとって前線を守る重要な拠点であり、防衛を固めた地域。
南部藩は侵攻の拠点として、何としても大館を奪おうと進撃を仕掛けます。
今住んでいる地域がそんな重要な拠点だったとは…でも言われてみると大館は秋田、青森、岩手をつなぐ街になっていますね。
両藩の間で激しい戦闘が繰り広げられ、地域は戦火に包まれました。
1986年8月20日には、南部藩が扇田村(現在の大館市比内町扇田)を占領し、村を焼き払います。
さらに8月22日には大館城周辺で南部藩と佐竹(大館城の城代)軍の戦闘が始まり、43日間の戦いの末、大館城は落城。
大館周辺では多くの家屋や農作物が焼失し、佐竹軍は大館城に自ら火をつけて西に撤退しました。
扇田は僕の出身地です。当時激しい戦闘が行われた場所だと思うと、なんとも言えない感情になります。
西に後退した佐竹軍でしたが、新政府軍の援軍が送られ、徐々に形勢は逆転。
奇襲なども成功し、9月6日には南部軍が自国に引き返しました。
戦いの結果、佐竹軍含む新政府軍が勝利し、南部藩は降伏したのでした。
逆に戦いに敗れていたら、今の大館はなかったのかもしれないですね(汗)
江戸時代から戊辰戦争までの大館
大館は江戸時代、久保田藩(秋田藩)の支配下にあった城下町でした。
商業や文化が栄えた地域でしたが、幕末の戊辰戦争では激しい戦いの舞台になった街でもあります。
ここでは、江戸時代から戊辰戦争までの大館の様子について解説します。
大館城主になった小場良成
現在「桂城公園」がある場所には、かつて大館城が築かれていました。
初代大館城主になったのは、小場良成。
小場良成は永禄12年(1569年)生まれで、常陸国の戦国大名である佐竹氏の一族でした。
佐竹氏も歴史で聞いたことがある大名です。歴史には疎いですけど。
佐竹氏が秋田に国替えになり、小場良成も秋田入り。
慶長15年(1610年)、南部藩や津軽藩から秋田を守る重要な拠点である大館城の初代城代となりました。
小場良成が死去したあとも、小場一族は佐竹西家の家筋として「西家」「お西様」と親しまれ、大館城の城主を勤め続けました。
山林資源で潤った大館
大館は「大館盆地」に位置する街で、四方を山に囲まれています。
久保田藩(秋田藩)の時代から、大館周辺の森林は重要な資源として知られていました。
特に秋田杉は高品質な木材として知られ、藩の重要な収入源でした。
今でも秋田杉を使った「曲げわっぱ」などの工芸品が作られていますね。
秋田杉を使った建築資材の生産や、曲げわっぱ、桶樽などの木材産業が発展。
久保田藩の経済的な基盤に基盤づくりに貢献するとともに、大館も比較的栄えた街として知られていました。
大館にできた二つの郷校
江戸時代には、大館に郷校ができました。
久保田藩(秋田藩)の藩校である「明徳館」の分校的な存在として、「博文書院」と「成章書院」が設置され、武士の子弟や庶民が学んだ記録があります。
成章書院では、四書・五経といった儒学が教えられていたようです。
二つの郷校の存在により、大館では学問に向かう気風が旺盛だったとされています。
十二所地域には今でも「成章小学校」や「成章中学校」がありますね。ちなみに僕は学問に向かう気風は旺盛ではありません。
大館市に残る戊辰戦争の跡
大館は、戊辰戦争の激戦地として歴史的な意義をもつ地域です。
新政府軍と旧政府軍の間で激しい戦いが繰り広げられ、その名残が現在も文化財や戦跡として残存。
ここでは、大館に残る戊辰戦争の激しさを物語る戦跡を紹介します。
扇田神明社の老木にある弾痕
大館市比内にある扇田神明社の老木には、戊辰戦争の弾痕が残っています。
扇田神明社の境内にある杉の木から、戊辰戦争当時の弾丸が発見されました。
1868年8月11日に南部藩と佐竹藩が神社周辺で激しく戦った際のものです。
小学生のとき社会科の授業で見学に行った記憶があります。
神社周辺での戦いは「扇田神明社の血戦」として知られ、南部藩は戊辰戦争で最大の犠牲者を出し、佐竹藩の十二所勢も多くの犠牲を払いました。
扇田神明社の弾痕は、戊辰戦争の戦いの激しさを現世に伝える貴重な歴史的証拠です。
桂城公園から出土したざくろ弾
1950年に、桂城公園のお堀の再生事業として行われた泥上げ作業の際、戊辰戦争時のものと思われるざくろ弾が発見されました。
ざくろ弾とは戊辰戦争でも使われた、いわゆる炸裂弾のことです。
発見されたざくろ弾の大きさは、短径3.7cm×長径8.7cm×高さ18.0cmで、重さは4.3㎏。
結構なまなましい弾ですね。炸裂する前のもののようです。
桂城公園はかつて大館城があった場所で、現在でもお堀と石垣の一部が残っています。
現在も「大館郷土博物館」に保管されている、当時の戦いの激しさを物語る重要な証拠です。
戊辰戦争でも焼失しなかった大館八幡神社
大館市には、「大館八幡神社」があり、戊辰戦争の戦火をまぬがれて現存する神社として知られています。
八幡神社は僕が通っていた高校のすぐ裏にあり、境内に保育園もあります。
慶長15年(1610年)に大館城中に祀られたのが始まりで、城中や大館16町を守る神社としてあがめられてきました。
本殿二棟が当時のまま現存し、国指定の重要文化財に指定されています。
「正八幡宮」と「若宮八幡宮」の二社があり、両本殿が隣同士並んでいることが特徴。
現在は、覆い屋のなかに収められ、二棟の本殿をガラス越しに見学できます。
大館は戊辰戦争の戦火から立ち直った街
本記事では、
といった方に向けて、戊辰戦争時の大館での戦いの様子や、現存する文化財について解説しました。
本記事のポイントは次の通りです。
大館は戊辰戦争で佐竹藩と南部藩の激しい戦いの地として、多くの犠牲を払ってきました。
現在も戦いの爪痕が残る大館。
戊辰戦争や歴史に興味がある方は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
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